私は自分に興味がないけど自分は私に興味がある
前、某テレビ番組で、インスタのフォロワーは多いのにフォロー数はゼロという人達に対して、タレントが、「周りは私に興味があるけど私はみんなに興味がない的なw」といっていたのを覚えていた。
タイトルの文は、先ほどの言葉を適当に言い換えてみた文である。
ふつう、イミフな文として片づけてしまうが、私はこの文がどのような意味を秘めているのか。
何か、その奥に意味があるのかもしれない、と思ってしまい、謎の好奇心で考え込んでしまった。
私の考察の結果を書こうと思う。
Aさんは、Aさん自身のことを「自分」として認識している。
この文章を言い換えてみよう。
Aさんは、「自分」という着ぐるみを着ている。
では、この「自分」という着ぐるみを脱いだらどうなるだろう。
Aさんは、Aさん自身のことを、主観的な「自分、Aさん」ではなく、客観的な「人間、Aさん」として認識するだろう。
Aさんが普段、知人のBさんのことを、「人間、Bさん」として認識しているのと同じだ。
このことを、タイトルの文にも応用させてみよう。
先ほどの文の、「Aさん」を「私」に置き換えてみよう。
私は、私自身のことを「自分」として認識している。
この文章を言い換えてみよう。
私は、「自分」という着ぐるみを着ている。
では、この「自分」という着ぐるみを脱いだらどうなるだろう。
私は、私自身のことを、主観的な「自分」ではなく、客観的な「一人の人間」として認識するだろう。
私が普段、知人のBさんのことを、「人間、Bさん」として認識しているのと同じだ。
人は普段、「自分」を生きている。
自分の将来に対する不安、周りから見た自分の評価など、常に大まかにいえば自分に関することを考えている。
それは、「自分」だからである。
Aさんを例に考えよう。
もしAさんが仮にBさんに生まれていたら、(Aさんの家族や親友でもない限り、)Aさんの将来や、Aさんが周りからどう評価されているかなどを深く考えたりしないだろう。
AさんがAさん自身のことを心配したり考えたりしているのは、「彼女がAさんに生まれたから」である。
人は自分のことになると、承認欲求やプライドなど、私欲的な感情が混ざって自分を客観的に見れないことがよくある。
もし自分を客観的に見れたらどんなにいいだろう。
タイトルの文の、「自分は私に興味がない」というのはどういうことだろう。
「私」をAさんに例えると、「Aさん」という人間は、「自分」という概念に興味がない。
つまりAさんにとって、【「Aさん」がたとえ自分だろうが他人だろうが、そんなことは関係ない。】ということだ。
「自分は私に興味がある」というのはどういうことだろう。
AさんがAさん自身に興味があるのは、彼女がAさんだからである。
「自分はAさんに興味がある」というのは、「自分」は、Aさんという人間に興味があるということだ。
先ほどの文とつなげると、
「Aさん」がたとえ自分だろうが他人だろうが、そんなことは関係ない。
「自分」は、Aさんという人間に興味がある。
ということになるのだ。
「自分」を、「自分」としてみるのではなく、「一人の人間」として見れるようになりたい。
そして、「自分」だから好き、「自分」だから気にかけるのではなく、自分を「一人の人間」として、愛せるようになりたい。
客観的に自分を見れるようになれば、きっと承認欲求やプライドなどの私欲に縛られることもなくなるだろう。
以上が私の考察である。
長文になってしまい申し訳ない。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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